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猩々の古い写真


 昭和8年 (1933年)

この写真は、昭和8年に名古屋市の市庁舎が建設された記念の写真集からのものです。

星崎の呼続神社の猩々たちで、一番左が、有名な「おかめ」、次が「寿老人」です。その隣の猩々は名古屋市博物館が出版した「大人形への祈り」という本で、寿老人とセットで写っていた猩々と同じもの(久納良衛門作)です。

袴ともう1体は不明です(おそらく戦災で消失)。
袴のやつは久納良衛門作とそっくりです。


 昭和10年 ・i1935年)

  
上の写真は、昭和10年10月19日の名古屋新聞に載ったものです。
以下が、その記事の文章です。

特大製七福神
グロそのもの・首ふりダンス 呼続さまの奉納舞

身のたけ一丈二寸の大布袋、つづいて大福禄寿、大黒天とおかめさん、大小とりまぜたまっかな猩々諸君が行列賑やかに境内へと練りこむと、そこで中へ入った若い衆が綱であやつる首ふり踊りが、笛や太鼓の音にあわせ、ほがらか至極にはじまるので、着すました新嫁さんまでが声立てて笑い出すというのである。名古屋市南区星崎町呼続神社の七福神の舞で、氏子諸君の自慢の催し。

日露戦勝の祝賀際にも、名古屋市庁舎落成のお祝いにも、熱田神宮や広小路あたりへ練りこんでいるし、許されるなら今度の神宮御遷宮祭へもこの舞を奉納したいと意気込んで、さる八日の例祭にも特に力を入れて踊ったというが、さてここに問題なのは、この大人形の中へ入る若い衆の人選びで小さい人では、腹のあたりにあいた穴のところへ顔がとどかぬ、顔がとどかぬから外が見えない、見えないので歩けないからこれは落第。

そこで長いのが選ばれるのだが、長いだけでは人形の重さにまいってしまうので今度は力あくまで強いのでなくてはならぬ、長くて、力あくまで強いのがシャツ一枚で十分間奉仕したら、小寒い秋のさなかでも汗でビッショリという次第、星崎町といへば名古屋の南端市内とはいうものの全くの田舎で農業や泥船乗りに従事している屈強の若い衆が多いから、従って形の中へ奉仕する人も、おいそれと間に合うからいいが もしこれが市内中央部の商店街や覚王山あたりのインテリ村にこんな催しが行われるとしたら「こりゃどうも・・・」と逃げ出すにきまっている。

織田信長盛んなりしころ、海を埋・゚てできあがった新田が、今の星崎で、その当時波が荒くてどうしても新田がうまくできぬ そこで伊勢神宮へ一萬遍の御祈祷をこめ、お迎えしたのが皇太神宮と國常立命の大分神、そして呼続神社としてお祀りすると 新田はスラスラとできあがるし その後におけるこのあたりが、とてもの豊作つづき、こりゃ福福だーとばかり、村中が相談して七福神の大人形を造り、神前へ奉納舞をすることとなったというのである(写真は七福神行列と布袋さま)


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