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大高の猩々 「くり」


 大高町新町組の「くり」
                                             ( 文章: 早川 真 、 2009年12月27日 )

<悪い猩々>
緑区大高町の氷上姉子神社の秋祭りは10月の第一日曜に行われます。祭礼期間中に「悪い猩々」と呼ばれる猩々が登場します。これは祭礼行列にも参加しますが、主として「追っかけ」を行う猩々です。「悪い猩々」の「悪い」というのは、「ええ猩々」とは別物であるという意味合いがあります。

大高町では町内所有のものとして新町に2体(くり、どんぐり)、川向に2体、中之郷に1体(ペコ)の計5体が確認されています。それぞれの製作年代は新町の「くり」が文久3年で最も古く、中之郷の「ぺこ」が大正末〜昭和初め頃で、その他は昭和の・Iわり頃に作られたものです。

<悪い猩々の役割>
「悪い猩々」の主な役割の一つには、他地区の猩々と同様「厄落とし」「魔よけ」を目的とした「追っかけ」があります。「追っかけ」とは猩々から逃げ惑う子供のお尻を叩くという風習で、地域によって叩くものが違います。大高では「ばれん」と呼ばれる竹筒を半分割いたものを使ってそれを行います。猩々に叩かれることで子供は「夏病み」しないと言われていて、猩々はお尻を叩くことによって邪気を吸収すると言い伝えられています。

fig.01 くり (二代目)

もう一つの役割として「喧嘩」があります。これは猩々が分布している地域では珍しく特殊な風習です。今でもその風習は続いていて神社の境内で見世物として行っています。最近ではあまり見られませんが30年くらい前までは、祭礼一週間前にもなると子供たちが自作した猩々同士を喧嘩させて遊ぶこともあったようです。そのため「悪い猩々」という呼び名のほかに「暴れ猩々」「喧嘩猩々」という呼び名もあります。

笠寺では猩々と獅子が喧嘩することもあったそうで、猩々に獅子の耳をとられると、返してもらうために酒を1升持って行っていたそうです。つまり、喧嘩には遊びとしての役割のほかに町内同士の付き合いを深めるという役割もあったのだと思います。

<被り手>
昔は若い衆、青年団などの団体が町内ごとにあって被り手を務めていたようです。現在は町内の有志の若者が被り手を務めています。現在は被り手の衣装は特に指定されていませんが、青年団があったころは白股引に白足袋・下駄という衣装で行っていたようです。


fig.02 髪の編目

fig.03 後頭部 (内部)

fig.04 頭上部 (内部)

<構造>
大高町では、頭に関しては紙の張り合わせのみ(一閑張り)で造られたものと、竹を編んで上から紙を張り合わせたものの2系統があります。川向の2体、中之郷の1体「ぺこ」は前者で、それ以外は後者です。古老の話によると、昔はどの猩々も後者の作りだったようです。

中之郷の「ペコ」は大正末〜昭和初めに星崎の久納良右衛門によって作られたことが明確なので、「ペコ」以外の一閑張りの猩々はそれを参考に作られたのでしょう。大高町は農村地帯なので、農業で使用する腰からぶら下げる小さな竹籠「てんぺつ」に紙を貼り合わせて顔を作っていたようです。そのため「悪い猩々」は「てんぺつ猩々」と言われることもあったそうです。



<くり>
新町組所有の猩々で、大高町に存在する悪い猩々の中では最も古い猩々です。

<顔>
おそらく製作当時のもので、「てんぺつ」で作られて、表面は紙を貼り重ねてあります。何度も貼り直した後があり、最も内側は台帳紙が貼られて、怒った表情をしています。髪はべんがらで染めたもので、1本の束のようになっています、中に結び目などが見えるので昔は他の猩々とおなじような長い髪で、月日が経つうちに薄くなってしまったんだと思います。

Fig.5 頭内部の台帳紙
<胴体・衣装>
ともに2代目のもので初代の胴体の頭を取り付ける板には「文久3年 ○○○三郎 作」と書かれています。
これは尾張地方に現存する追っかけ猩々の墨書きとしては最古のものです。胴体は平成15年に修理して少し大きめになりました。衣装はどてらで背面に新町の旧字である眞町の「眞」が白く染め抜かれていて、初代はおそらく胴体と同じ文久3年、2代目は昭和期に作られたのだと思われます。初代の衣装は紺色と赤色の縦縞模様、2代目の衣装は水色と茶色の縦縞模様です。


Fig.6 籠 前から見たところ (初代)

Fig.7 籠 上から見たところ

Fig.8 臍板の裏


<民俗学的価値>
「くり」に関して興味深いのは、初代の衣装の柄が鳴海の「あたらし」と一致しているということです。これは「くり」が「あたらし」を参考にして作られた、「あたらし」の衣装は昔から紺色と赤色の縦縞模様だったということを連想させます。ただ、「くり」と「あたらし」では顔が違いすぎるので、当時は猩々といえばこの柄という風潮で作ったのかもしれません。

それから顔の構造に関して、東海市、大府市一帯の猩々も竹を編んだものに紙を張って作られているということが興味深いです。
鳴海を猩々発祥の地とするなら、大高町は鳴海から東海市、大府市までの中間地点なので、「くり」を発祥として「てんぺつ猩々」が広まったのかもしれません。子供を叩くものが「ばれん」であるという点、怒った顔である点も同じです。


Fig.10 初代衣装の裏

Fig.9 初代衣装の表

また、大高の新町組の蔵に安政2年(1855)に作られた「帳箱」というものがあって、幕末から現在までの家、土地やお金に関する資料(祭礼の会計も)が収められています。
その現金出納帳の中に、明治23年(1890)に猩々の修理をした際の出費と明細が書かれていました。「べんがら」「麻」「のり」とありますから、おそらく「くり」のことだろうと思われます。
クリの古い籠には文久3年(1863)作と書かれているので、明治23年ごろに痛んできて修理してもおかしくありません。この資料から考えると、やはり当初から、「くり」は鳴海のような漆塗りの猩々ではなく、現在のようなベンガラで塗った猩々であったと考えて良さそうです。


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