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笠寺猩々保存会のあゆみ


 南区の猩々職人

明治期以前の歴史は、猩々の歴史のページで書きましたが、江戸中期にはひょっとしたらひとつしかなかったかもしれない猩々大人形は、江戸後期から幕末にかけてたくさん作られるようになり、東海道や知多街道に沿ってどんどん広がって行きました。

明治から昭和にかけては、名古屋市南区付近にも腕の良い猩々作りの職人が何人もいて、「久納良助」「久納良右衛門」「荒川関三郎」といった名工が作った猩々が、笠寺・星崎などに数多く残っていました。ただ、これらの名工もすでに亡くなり、現存する猩々も老朽化して倉庫の奥深くに放置されたままになり、しだいに祭りの場から姿を消して行きました。現在、笠寺地域には今でも30体以上の猩々がいますが、古い名工が作ったものは9体のみです。

 久野充浩の猩々作り

現在、笠寺猩々保存会の会長を務めている久野充浩(南区笠寺、西松池町)は、「子供の頃は、お祭りの季節になると、いつも猩々を追いかけたり、猩々に追いかけられたりして走り回っていた。青年になっても、猩々を被って子供たちを追い回し、本当に楽しかった。その祭礼行事の主役たちを、何とかして後世に伝えて行きたい。」そういう思いをずっと持ち続けていました。

子供の頃に、同じ町内だった荒川関三郎から猩々作りの手ほどきを受けた久野充浩は、若い頃から猩々の作り方を熱心に研究。荒川関三郎亡き後、荒川家および久納家から、数多くの猩々作りに関する資料・材料を継承し、「一閑張り」という古来から伝わる猩々作りの技法を完全に習得ました。
1997年頃からは、老朽化して倉庫の片隅に眠っていた猩々を修理して次々と復活させ、また、新しい猩々の製作にも励んできました。


 笠寺猩々保存会の結成

2005年、名古屋で愛・地球博が開かれ、笠寺の猩々たちも、その万国博覧会に出演することが決まりました。それを期に、それまで祭礼のときに猩々を被るボランティア活動をしていたメンバーが集まり、猩々作りの名人、久野充浩
を会長として、笠寺猩々保存会を結成しました。

愛・地球博で大活躍した後も、名古屋市南部を中心に、いろいろなお祭りやイベントで活動を続けています。その記録は、活動報告のページにありますが、最近は岐阜まで足を伸ばしています。

「古来から伝わる伝統的な技法で猩々を作る」ことも重要ですが、「猩々大人形の楽しさを、一人でも多くの子供たちに知ってもらう」ことも、やはり大切なことです。
この2つをセットにして後世に伝えて行きたいというのが、私たちの思いです。

愛地球博EXPOホールにて

私たちの活動に連携をとっていただける方、協力していただける方、一緒にやってみたいと思われる方がいらっしゃいましたら、是非、ご連絡ください。お待ちしています。


 会長インタビュー

民俗芸能ストリームの西嶋さんが、会長のインタビューをビデオに収めて、Youtubeにアップしてくれました。





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