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猩々の歴史と伝承 |
◆ 猩々の古い歴史
◆ 梵天(ぼんでん)祭り
◆ 文化文政期〜明治期
伝わった経路に関しては、大きく分けると鳴海村を起点とした2つのルートがあり、東海道に沿って伝わったものと、知多街道に沿って伝わったものです。 東海道沿いに、北西方向には星崎・笠寺・富部・津賀田・伝馬町へと広がり、南東方向には有松・桶狭間・大高・大府・豊明方面に広がって行きました。知多街道沿いには、南方向に名和・荒尾・富木島の方へと広がって行きました。また、鳴海村から東へ扇川沿いに、籠山・平手・徳重などへも伝わっており、飛び地のように、豊田市の中根・高岡にも伝わっています。
◆ 猩々に関する考察 ここまでいろいろ書いてきましたが、現代の猩々は、江戸時代に高力猿猴庵の描いた猩々と、多少イメージが違うようなところもあります。いつ頃、どのような過程を経て現在の猩々になってきたのかを、やや想像を含めて考えてみることにしましょう。 <能人形に近い猩々>
このような能人形的な高価な猩々は、幕末期には各地に広がって行ったようです。ただ、高価な衣装を着た猩々を寄進できる資産家はそれほど多いわけではなく、現在伝わっていないものを含めても、おそらくそれほど数が多くなかったような気がします。 では、高力猿猴庵が描いた鳴海の猩々は、その後、どうなったのでしょう。現在の鳴海町の「アタラシ」が、それに相当しているということになっていますが、私は多少疑問を持っています。最大の理由は、「アタラシ」」という名前です。アタラシは、購入した当時、何か新しい猩々であったはずです。 これに関して、鳴海には気になっている言い伝えがあります。「祭礼の中心話題は、この猩々である。天保初めの頃、当地の町医伊藤泰庵が、讃岐の琴平参詣の帰途、京都にて猩々の頭を入手。名護屋大丸にて、衣装その他を調整、町内の梵天として寄付したもの、趣のある出し物である。」というものです。 一般的には、鳴海の猩々は、宝暦年間(1751〜1763)以前から存在しているので、この言い伝えは誤りだとされています。 しかし、「アタラシ」という名前を・lえると、それまでの猩々が古くなってしまったので、天保(1830〜1843年)のはじめに買い換えたのかもしれません。また、周囲の村々に高価な衣装の猩々がいろいろ出現してきて、「うちも負けてはいられない」ということで、新しい頭を買ってきて、名古屋の大丸衣装店(有名な高級衣装の店)で高価な衣装を調達したという可能性もあります。 なんとなく、「アタラシ」よりも「フルババ」の方が、高力猿猴庵が描いた鳴海の猩々に似ている気もするので、ひょっとしたら「フルババ」を「アタラシ」の方へ新調したのかもしれません。ただ、あまり言うと鳴海の人たちに怒られるので、このくらいにしておきます。 <追っかけ猩々>
右の写真は大高の「くり」で、江戸時代末の作だと伝えられていますが、大高の「くり」のページを見ていただくとわかるように、頭部の構造は竹で編んだ籠に紙が貼ってあります。一般庶民が身近にあるもので作ってしまおうと考えれば、このような構造が最もシンプルでしょう。ちょっと違いますが、美濃市の大矢田神社で行われる「ひんここ祭り」で使われる人形も、頭部は同じような構造になっているようです。 現在のような、紙を糊で張り合わせた張子状のものは、もう少し後になってからの製法かもしれません。 おそらく最初の頃は、祭礼の行列を先導するような役割だけだったのでしょう。ただ、作るのが簡単なため、村の中でもどんどん数が増えて、猩々を被るのも若年寄ではなくて血気盛んな若い衆になってゆけば、猩々同士がけんかをしたり、子供にちょっかいをかけたりすることも当然起きてきたでしょう。そういったことがまた新しい文化を生み出し、現在のような形になったのではないかと想像しています。 「猩々にお尻を叩かれた子供は、その年は病気にならない」というような言い伝えも、最初からそれを目的としていたのではなくて、「大人たちの願い」を猩々にかかわる民間信仰から連想して、後からくっつけたものと考えています。 <その他の大人形> 猩々大人形とは異なるが、構造的にほとんど同じ大人形があります。布袋(南区星崎)、福禄寿・寿老人(南区星崎・緑区鳴海・東海市名和町)、おかめ(南区元鳴尾町)、天狗(緑区有松町・豊明市前後町)、天狗(緑区鳴海町相川・豊明市前後町)などです。 これらは、猩々から派生したのかもしれませんが、少し意味が違いそうです。梵天祭りに出ていた練物の、遠い遺物のような感じがします。もちろん、化政期のものが、直接現在まで残っていたわけではないでしょうが。 |
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