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猩々って何?


 中国の想像上の動物「猩々」
中国で3世紀に書かれた「礼記(曲礼の篇)」には、「鸚鵡能く言へども飛ぶ鳥を離れず。猩々能く言へども禽獣を離れず。今人にして礼無くんば、能く言ふと雖も亦禽獣の心にあらずや。」(オウムは上手にしゃべるが、結局、飛ぶ鳥の域を出ない。猩々も上手にしゃべるが、しょぜん動物である。今日、人であっても、礼節が無ければ、いくら弁舌が達者であったとしても、結局、心は動物のレベルである。)と書かれています。

3世紀以前に成立した「山海経」にも「猩々」という言葉は出てきますし、かなり古くから、想像上の動物である「猩々」は存在していました。ただ、「礼記」の表現でもわかるように、猩々は神格化されておらず、単なる動物として捉えられています。結局、以後のさまざまな文献を総合すると、「猩々は酒好きで赤ら顔であり、人の言葉をしゃべるが、しょせん猿に似た愚かな動物に過ぎない。」というイメージで、それが千数百年にわたって受け継がれていました。

猩々という想像上の動物の話が、いつ日本に伝わったのかははっきりしませんが、承平年間(931〜938年)に成立した「和名類聚抄」には、猩々についての記載が載っています。ただ、当時の日本での猩々に対する見方も、古い中国のイメージそのままで、室町中期までは、あまり猩々に対して良い印象は持たれていなかったようです。

Wikipedia
和漢三才図絵より

 能の演目の「猩々」
近世になってくると、日本人の間に「猩々は人に福をもたらす神様の化身である」というイメージが出来てきます。このような猩々観の成立には、能の演目にある「猩々」が大きな役割を果たしたと考えられています。まず、能の「猩々」のストーリーを見てみましょう。

むかし潯陽の傍らの金山というところに、高風という名前の親孝行な若者が住んでいました。彼は、「市でお酒を売ればお金持ちになれる」という夢のお告げによって酒売りとなりました。店はたいへん繁盛し、しだいに裕福になって行きました。その店に不思議な客が毎日やってきて、いつも酒を飲んでゆくのですが、まったく顔色が変わりません。不思議に思った高風が、その客に名前をたずねたところ、「自分は海中に住む猩々である」と告げて立去ってしまいました。
驚いた高風が川のほとりで酒壷を供え、一晩中待っていると、突然、猩々が現れました。猩々は高風といっしょに酒を飲み、高風の親孝行ぶりをほめたたえました。そして、少し酔いがまわったところで舞を舞い、いくら汲んでも尽きることがない酒壷を彼に与えて、ふたたび海中に帰って行きました。

能が成立した室町後期は戦乱の世の中でもあり、能のストーリーも死者の亡霊が出てくるような暗い話が多いのですが、「猩々」は明るいキャラクターの精霊であり、庶民にも親しみやすかったのでしょう。江戸時代には、能の「謡(うたい)」が庶民の間にも流行し、しだいに猩々は「赤い顔をした陽気な酒の神様で、親孝行のシンボル」という良いイメージが定着し、民間信仰に近い形で広がって行きます。そして、祭りにも、いろいろな場面で取り入れられて行くようになりました。

 疱瘡(天然痘)の魔よけとしての「猩々」
医学が未発達な時代には、病気を治したり、疫病の流行を止めたりするのには、呪術的な方法に頼るしかありませんでした。疫病の中でも特に疱瘡(天然痘)は、ひんぱんに流行を繰り返し、一般庶民には非常に恐れられていました。この病気は疱瘡神がもたらすものと当時は考えられていましたが、それに関わる俗信のひとつに「疱瘡神は赤い色が嫌いである」というものがありました。

ひとたび疱瘡患者がでると、疱瘡神を追い払うため、病人の身の回りはすべて赤色づくしにするという、涙ぐましい努力が行われました。また、子供を疱瘡から守るため、枕元に赤い人形を置いたり、赤絵と呼ばれる赤一色に刷られた錦絵を飾ったりしました。民芸品の「さるぼぼ」も、同じコンセプトで作られたものです。

そして、このような民間信仰をベースに、顔の赤い猩々は、「疱瘡の魔よけの神様」としての役割も、担うようになって行きました。本来は病気とは関係の無い神様だったはずなのですが、顔が赤いという一点で「病気を防ぐ神様」に進化してしまったというわけです。

情報処理推進機構HP
 疱瘡絵「桃太郎」

 サルタヒコ(猿田彦)との関連
サルタヒコは、天照大神に遣わされたニニギノミコト(瓊瓊杵尊)が天孫降臨した際に道案内をした国津神です。日本書紀によれば「鼻の長さは七咫(ななあた)、背の高さは七尺(ななさか)、目は八咫鏡(やたのかがみ)のようで、赤酸醤(あかかがち)のように照り輝いているという姿であった。」とされています。
この神様を先導したという役割から、古来から日本のいたるところの祭りで、祭り行列・神輿行列の先導をサルタヒコが務めてきました。天狗は、平安末期以降に山岳宗教や民間信仰から出てきたもので、本来、サルタヒコとは起源が違うのですが、天狗と風貌が似ているということで、多くの祭りで天狗が行列の先導をしています。

Wikipedia
 天狗の面をかぶったサルタヒコ
猩々がこのサルタヒコと関連付けられていることは、名古屋南部以外ではあまり聞きません。ですが、猩々大人形が祭りの行列の先導をしていることから考えて、猩々大人形とサルタヒコのイメージが重なっていることは、間違いないでしょう。鼻は高くありませんが、背が高くて威圧感があり目が輝いているといった風貌は、多少一致しているような気がします。

 名古屋南部地域の「猩々」大人形
名古屋南部の猩々大人形は、能の猩々のイメージから派生した猩々人形をベースに、いろいろな要素が加わって現在の形になっています。歴史のページに書いたように、梵天祭りの練物の影響もあったでしょうし、鳴海から東海市北部にかけての酒造業との関連もあったと思われます。
現在のの猩々大人形には、大きく分けて2つの役割がありますので、順番に見て行きましょう。。

<祭礼の行列に参列する>
行列の先頭に立つことが多いですが、神輿や山車の前後とか、しんがり(最後尾)を受け持つ町内もあります。猩々は普段「どてら(綿入れの半纏)」を着ていますが、祭礼の行列に参列するときだけ、裃に着替えることも多いです。この役割に関しては、前述したようにサルタヒコとの風貌の関連性もありそうです。
この役割が最も古くからあったわけですが、江戸中期の練物行列の流行にも触発されて、「陽気で酒好きな神様」は、祭りのキャラクターとしてどんどん普及して行きました。また、名古屋南部、特に緑区から東海市北部にかけては、江戸時代から酒造業が盛んな地域です。祭りへの出資者の気持ちとしても、「お酒の神様」が祭りに出てくることは十分にうなづけます。

<子供たちを追い回してたたく>
子供たちは、「猩々の馬鹿やーい」とはやしたてて、猩々をつついたりけったり、おもちゃの刀で切りつけたり銀玉鉄砲で撃ったりして挑発します。すると、猩々は急に振り向いて子供たちを追いかけ、団扇や竹の棒で子供たちのお尻をたたきます。猩々にたたかれると、「その子供は1年間病気にならない」という言い伝えがあります。

本来、祭礼の行列を先導するような「神様」に対して、子供たちがはやしたてたりしたら、親たちは子供をしかったでしょう。親たちが子供をしかったりせずに、「その子供は1年間病気にならない」などと大目に見ているのは、やはり「猩々は疱瘡神の魔よけの神様」という意識が、昔はあったからだろうと思います。

昔は、子供たちは、祭りの猩々は本当に怖かったと言います。猩々に睨まれるような非日常の世界の出来事は、子供たちの心に本当に深く刻まれたのでしょう。
最近の子供は、ゲームなどバーチャルな世界にも生きていますので、少しぐらいの事では驚きませんが、でもやはり現実世界の猩々大人形は、ゲームで見たバーチャルなアクションと違って、何年たっても鮮明に覚えているようです。

<まとめ>
日本中には、単なる猩々人形なら他にもたくさんあり、名古屋近辺の山車でも、猩々人形のからくりが乗っていたものがたくさんありました。ただ、着ぐるみのようにまるで生きているかのように動き回る猩々は、この猩々大人形の他にはありません。江戸時代から続いているとは思えないこのリアリティさが、長い間、ずっと人々に愛され続けてきた理由のひとつのような気がします。


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